サマーデイズの贈り物






 夢という言葉がいつから目標になったんだっけ。
 そんなふわふわとしたことを考えながら、廊下から窓の外を見やった。
 真っ青な空に真っ白な雲――いや、飛行機雲だ。青に一直線に引かれた白い航跡は、現れては消えていく。  飛行機雲がすぐに消えていく次の日は、確か晴れ。朝の澄んだ空気の中だから、まだ明日の天気がどうという話にはならないかもしれないが、今日は天気がいいということだろう。

(――こういう話は、が好きそうだよな)

 ふっと浮かんだ彼女の顔に、それまでどこかふわふわしていた感情がすっと地に降り立つのを自覚する。
 急に現実に引き戻されたような虚ろな感覚とは違い、確かに自分がここにいることを自覚できるまるで引力でも働いているかのような感覚だった。

 足が地に着いて急に軽くなった足取りで、渋沢は1限目が始まる教室へ急いだ。





「渋沢」

 彼女が渋沢のことを呼び止めたのは、サッカー部の放課後の練習が終わった後のことだった。
 最後、監督室に呼び出されて打合せなどをしていたから、他のサッカー部員たちは既に寮へ帰っていて、都合よく――サッカー部の連中に茶化されることもなく――その時渋沢は一人だった。

。どうしたんだ」

 その声を聞いただけでためらう必要もなく口から出てくる彼女の名前。もっとも、名前ではなく苗字でしか呼んでいないけれど。
 背中に斜めがけしたスポーツバッグをサッカー部棟の壁との間にクッションにして、彼女――はそれによりかかっていた。その背を離すと、は足を止めていた渋沢の前まで来て、おつかれさま、と言った。

「朝から何か言いたそうだったから。待ってたの」

 同じクラスでもある彼女と顔を合わせることなんて今朝から何度もあったし、話だってしたし、お昼ごはんは一緒に食べていた。
 けれど、どのタイミングでも、話を切り出すことが出来なかったのは確かだった。決して後ろめたい話なんかではないし、彼女には予めその可能性を話していたから。
 それでもどうしても、言い出せなかった。
 そのことをはちゃんと察していた。

「決めたんだ」

 真っ直ぐに自分を見るから目をそらさず、ゆっくりと、言葉を紡ぎ出した。
 さっきまで静かだったはずの心臓がやたら大きく騒ぎ出すのを感じる。
 理由は分かり切っている。これから彼女に伝えるその一言が、自分で選ぶ一つの大きな決意だったから。

「――来季から、J1に挑戦すること」

 数日前、HRの終わりに放課後職員室に来るようにと呼び出された渋沢に手渡された書類は、来年からJ1――鹿島アントラーズ――にこないかというオファーを告げるものだった。
 学校を通して行われるそれは、もちろん監督――武蔵森学園サッカー部 総監督――である桐原の耳にも既に届いていて、渋沢は翌朝監督室へと呼び出された。
 に会ったのは職員室へ呼び出された後のことで、ちょうど練習も休みだったことからと一緒に帰ったその時にかいつまんだ話をした。

 嬉しいのは事実だったし、サッカーで生きていくのは本意だった。そして、こうしてオファーが来たことは自分が認められたということで、光栄なことだと思った。けれど――まだ、もっと、知りたいと思うことが多く、諸手をあげて喜べずにいたのも事実だった。
 例えサッカーで生きていくのだとしても、知らないことについて知りたいと思う好奇心は健在で、まだまだ色々ことを学びたい、今しか出来ないことも必要なことはもっとあるんじゃないか――そんな風に考えてしまっていた。
 それは欲張りなことなんだろうか。
 今でも少しだけ、それは渋沢の心内に引っかかりを残している。

 そんな風に心内にあったもやもやとしたものをに伝えたその時も、彼女は渋沢が決めるべき事柄について何かを言うことはなかった。
 ただ、自分の前にあるのはいつでも未知で、振り返った時に見えるものが道であると、詩人のように呟いただけ。

「そっか。じゃ、進学しないんだ」

 ぽつりと呟いた彼女に、渋沢は明確に答えることが出来なかった。
 自分が恐れずに進もうと決めた“みち”を、はどう思うだろうか。
 そう考えると、今はまだ、その“時”ではない気がして。


「渋沢は、いつから“それ”が目標になったの?」

 少しだけ沈んだ声音で呟いた先程とは違って、いつの間にか下を向いていた顔をぱっとあげて、は渋沢に問いかけた。
 彼女の言った「それ」は、「プロを志す」という意味だろう。
 今朝、自分の決めたことを監督に伝えたそのあと、彼自身が思いを巡らせたことと同じだった。
 
 いつから夢が目標になったんだっけ。
 ――こんな秋を探す晩夏の日にふっと脳裏をかすめる、真夏の太陽みたいな笑顔があった。
 もう何年も会っていないから、きっとあの頃よりもっときれいになっているのだろうけれど、記憶の中の“彼女”の笑顔は今もあの時のまま。今の自分と同じ、高校3年生。

「単純だよな」

 そんなことを思い出しながら呟いた声は、自分でも驚くほど自嘲めいていた。

「『いつか克朗君がプロのサッカー選手になったら応援に行くね』なんて言われて、それでプロがひとつの目標になるんだから」

 思い出すその笑顔はいつも“プロ”という単語を強く意識させた。
 小学校5年生の夏、何がきっかけだったか今となっては忘れてしまったけれど、彼女がそう言ったことだけを今もはっきりと覚えていた。その時、渋沢にとって“プロのサッカー選手”という言葉は宙空に浮かぶあやふやな言葉ではなく、手をのばして手に入れるべき存在になった。

 そしてその冬の選手権で武蔵森学園が優勝を飾ったあの試合を見て、渋沢は武蔵森へ進学したいと決めたのだ。
 国立競技場という場所の特別さ、正確さとスピードを兼ね備えたパスと目の離せない試合展開、湧き上がる 歓声の大きさ――その中心にいた、すごいストライカー。
 ゴールポストの隅を正確に狙ったシュート、DFをかいくぐってセンタリングを受け取るその飛び出し、しなやかなドリブルと絶妙なパス回し――視線はそのストライカーに釘づけになった。まるでフィールド全体に目があるようなその動き全てに。
 その選手こそが、後輩の藤代誠二の兄だというのは後に知った話だったけれど。

「誰の言葉?」
「近所のお姉さん。最近結婚して遠くへ嫁いだらしいけど」

 あの頃高校3年生だから、今はきっと25歳くらい。彼女は高校を卒業して大学へ入ると一人暮らしを始めたから、会わなくなった。いま思えば、あの時が最後の会話らしい会話だったかもしれない。

「自分のことを可愛がってくれる年上の女の人のことを、小さい子供は好きなもんだよ」

「“好き”だったんでしょ」

 言い訳めいた子どもの“好き”を盾にしてみたけれど、はどこか楽しそうにからかうように言った。
 好き、という言葉をどこまで使うのか。
 初恋だったかな、と確かにふっと思うことがある。近所のお姉さんは時折会うと必ず笑顔で話をしてくれたし、サッカーをしてる姿を誉めてくれて、やさしくて、ちょっとだけ意地悪で。
 こんなお姉さんがいたらいいなと、思っていた。


への“好き”とは違うけどな」


 そうだ。
 本当に淡い、泡沫の初恋だった。

 面食らったようにが目をまん丸くしたのが可愛くて、いつも勝気で今だって自分でからかってみたくせにこうして言い返されると赤くなったりするそんな姿が愛しくて。
 本当に“好き”だと感じる女の子は、今自分の隣にいてくれる。


「そういえば、は今朝飛行機雲見たか?」

 その話で思い出した、今朝の窓から見えた光景。

「見たよ。すぐにすっと消えてって。今日は一日天気いいんだなーって――なに」

 きっと彼女はこんな話が好きだろうな、と思っていただけに、同じこと――天気のこと――を考えていたことが嬉しくなって思わず吹き出してしまった渋沢に、は理由も分からず笑われたことを不服そうにした。
(同じものを見てた)
 同じものを見て同じように感じていたことが、たまらなく嬉しかった。

「いや、らしくて」

 そんなことを言えずに弁明するその言葉すら笑い交じりでは、誠意が全く感じられない!と言われかねない。もっとも、その言葉では弁明にすらなっていないのだけど。
 は既に諦めたのか、小さくため息をついてそっぽを向いてしまった。
 そして、ふっと視線を留めて、小さく「あ、」と呟いた。

「飛行機だ」

 呟いたの視線の先を追って、渋沢も顔をあげた。
 話題の主がゆっくりと――悠然と――空を横切っていく。
 その足跡は、今朝と同じ。

「明日もきっと晴れだよ」
「そうだな」

 夕焼け色に染まりゆく空に、真っ白な航跡。
 同じ長さで流れていくようなそれに、明日の天気予報は二人で一致した。








 (2013.7.29) 【0729】出展。