![]() 夜と星と彼女と歌声夜の簡単なジョギングを済ませるのは彼にとっては至っていつもの日課である。体力づくりも大切な体調管理の1つ。焦ったところで成果は出ない。 だが、彼の日常の中での一日の締めはジョギングである。朝、そして夜のジョギング。 寮生活の消灯時間の手前、中学時代は完全に睡眠で過ごしていた時間を少しだけの体力づくりへかけている。 ……正直に言えば、それ以外にも1つ、少しだけ邪な理由もある。いつもと同じルートをまっすぐに走り、階段を登る。涼しい風が火照った頬を撫でてちらりと見上げる。いつもと同じ、がらんとした公園のステージに彼女は立っていた。その姿にほんの少しだけ渋沢克朗は安堵する。彼女は彼の存在を確認するとギターを置いた。 「渋沢くん、こんばんは」 「……こんばんは、さん」 と呼ばれた女性はシニカルに笑って譜面台を見ながら少しだけギターを小さく引く。人通りの少ない夜の公園で彼女が練習をしているのを見かけたのは数ヶ月前だが、許可を得ていない練習なので本気で弾いていないのだと彼女は言った。今日も彼女はいつもと同じように口ずさむ程度の小声で新曲を唄う。それをひたすら渋沢は黙って聞いていた。 「……そういえばさ、時間は大丈夫?もうすぐ10時だけど」 「ああ――……ええと、多分」 曖昧な渋沢の返答には肩をすくめて笑った。そう年齢も変わらない、他校の生徒なのだと彼女は言ったことを思い出す。 渋沢が夜のジョギングを初めて4日目――……練習試合での大敗に彼のプライドが傷つけられた日、たまたま彼女に出逢った。は今と変わらない場所でいつもと同じようにギターを弾いていた。その声は空に掻き消えされ、表情は影に隠れて見えないが熱情を秘めていた。その声とひたすらかき鳴らすような指さばきに足を止めた。弾き語りのフォークソングに耳を捉えられたといえばドラマティックだが、そんな甘ったるいものとは明確なほど異なっていた。 悲壮と激情と困惑の色を孕んだ歌だ。彼女の感情を投げっぱなしの荒々しい歌で、最後の最後まで不思議なほどに彼は彼女の歌に魅入られていた。聴き終わった時、彼女の屈託の無い表情が胸をときめかせるには十分で、彼の中に抱え込んでいた痛みだの何だの、トゲを引っこ抜いたような気がした。 視線があった時、は柔らかく小さく笑って、頭を下げてみせる。これらが彼らの出会いのはじまりであり、そこから今に至るまで……渋沢克朗のスランプからの脱却、日本代表への返り咲きまではほぼ同じ時間であった。 「さん」 「うん?」 今日も唄ったんですか。渋沢の問いにはまぁね、とだけ返した。問いに満足して渋沢は自分に言い聞かすように頷く。いつもと同じようなやり取りだ。彼女が普段何をしているのかは渋沢は知らない。けれど、は彼に何も聞かないのだ。渋沢くん、と呼ぶ声は彼を不可思議なほど柔和な気持ちにさせてくれる。 「もう少し、ここにいます」 「そう」 「唄うんですか?」 「迷惑にならない程度にね」 一緒に歌ってくれるの?彼女は挑戦的に微笑うので、渋沢は否、と首を横に振った。そんな彼の反応をわかりきったかのように彼女は頷いて、ハミングに近い意小さな声で唄う。 歌っては、宵闇へ吸い込まれていく歌。夜と星と彼女と、歌声。ゆっくりと包まれていく状況に―――渋沢克朗は、らしくもなく、少しだけ泣きそうになる。片方の目だけをあけたと目があって、彼女は彼を慰めるように歌をハミングしていく。 ……大丈夫だと、ここにはいない誰かが背中を押してくれている、そんな気がした。彼は意を決して前を向く。明日からもまた、前を向くために。 彼女が笑っている、そんな気がした。 ■0729提出作品 |