『ん?』
『……今度の俺の誕生日だけど、欲しいものがあるんだ。だから、なにもしてくれるなよ』

私の誕生日を祝ったその日に、しれっとそう言った彼。

『えー? 欲しいものがあるなら、なにも誕生日まで待たなくてもいいのに……』

そんな私の言葉は、のらりくらりと上手くかわされてしまった。




秒針を追いかけて





渋沢の誕生日前日。
仕事を終えてから、同居している両親の承諾を取り付けた。 両親からなにを言われるでもなく送りだされ、買物を済ませて彼の部屋に向かう。 事前に連絡を入れなかったから留守だったらどうしようと頭を過った不安は、駐車場にあった車によって払拭された。

「いくら渋沢の希望だとしても、なにもしないのもなんだからせめて最初におめでとうくらい言わせて」

そう押し掛けた私に少し吃驚していたものの、渋沢は当たり前のように自室に迎い入れてくれた。 11時50分を過ぎてから、何気なく時計の針を目で追いかけてみたものの、 12時きっかりに『おめでとう』なんてそうそう言えないものだと思い知るだけだった。 カチカチと正確に時を刻んでいく時計に、もう少し空気を読めというのもムリな話。 なにはともあれ、無事渋沢の誕生日を一緒に迎えられたのだからよしとしよう。

「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」

渋沢は私の考えていたことの察しがついているのか、おかしそうに笑っている。 今の時点で出来ることを全てやり終えてしまった私は手持無沙汰になってしまって、催促するように視線を向けていると苦笑された。

「納得が出来たらで構わないけど、のサインが欲しいんだ」
「……は? 一般人のサインなんてなにに使うの?」

私の反応が可笑しかったようで、渋沢は堪え切れずに声をあげて笑いだした。 そんな風に笑われても、こちらとしてはなにがおかしいのかさっぱり分からない。

「いや……言い方が悪かったな。要するに名前を書いて欲しいものがあるんだ」
「あのさ。前に言ってたのって、まさかそれだけとか言わないよね?」
「それで充分だよ」
「……いやいやいや。私ほんとになにも用意してないよ? 名前書くだけなんてそんな……あ」
「ん?」

渋沢の様子を見ている限り、多分違うだろうと思いながらも口を開いた。

「頼まれても無理だけど……なにかの連帯保証人にって話でもないでしょう?」
「……流石にそれはないな」
「ですよね。じゃあ、一体なんなの?」

お手上げといわんばかりに問いかけてみれば、少し気まずそうに一枚の紙を差し出された。 空欄はごく一部で、私が記入するだけになっているそれを目の前に、どれだけの間口を利かなかったかは定かじゃない。

「……逆じゃない?」
「え? どこが……」

吃驚した様子で書面を覗き込む渋沢に、無意識に口をついて出てきたのは深い溜息。

「普通さ……私の誕生祝いで良いんだよ、こういうのは」
「なんだ。まぁ……そんなのどっちでもいいじゃないか」
「良くない。こっちがもらう側なんだから……吃驚する、でしょ」

声が震えて、視界が揺れる。

― だめだ、泣く。

そう思った時には既に、泣いていたんだと思う。 いつの間に用意したのか分からないけど、渋沢から差し出されたタオルに無言で顔を押し付ける。 色々な感情が入り混じって、感情を上手くコントロール出来なかった。 ただの嬉し泣きと言うにはあまりにもかけ離れた私の泣きっぷりに、渋沢も困惑しているに違いない。

「……渋沢さ」
「なんだ?」
「仕事は……本当に引退するの?」

『渋沢が現役中は結婚するつもりないよ』と前々から話している。 今まで待っていたのだから、私からその条件を取り消すつもりは毛頭ない。

「約束だからな……流石に今すぐは無理だけど、そういう話はしてる」
「今度のW杯とか出なくて平気なの?」
「それは……俺が決めることじゃないよ」

がしがしと頭をかきながら、渋沢は少し言い難そうにそうとだけ呟いた。 渋沢は参っているだろうけど、私はそういう返答が来るんじゃないかと薄々感じていた。 流石にそこまで話が進んでいれば、彼のこの行動を先読みだって出来た筈だから。 立場的にも、渋沢の場合は自分の希望だけでどうこう出来ることではないのだろう。

「……こういうことは、そういうのが正式に決まってからで良いよ」
「俺が良くないから、こうして頼んでるんだろ」

付き合いは長い方だけど、ここまで余裕がない渋沢を目の当たりにするのは初めてだった。 珍しいことがこうも立て続けに起こると、なかなか頭がついて行けないもので。 余程吃驚した顔をしていたのか、『ごめん』と言う声が渋沢の口から漏れる。

「ううん……気に触る言い方したならごめん。でも……あの、今更焦る必要性がいまいち分からないというか……」

私だって20代の頃は、20代のうちになんとか……と思う気持ちも、なくはなかったけど。気がつけばもう30代だ。 喉元過ぎればなんとやら、今更慌ててどうなることでもないと腹だって括れるようにもなる。 勿論それは『いつかは彼が、責任を取ってくれるだろう』という憶測があってのものだけど、そこまで『今』に拘る必要性はないんじゃないだろうか?

はどう思ってるか分からないけど……俺は、出来たら子供も欲しいよ」
「…………っ、そこか」

その言葉を聞いて、思わず額に手を当てた。……なるほど、確かにそれは一理ある。 そういうことが年齢だけで決まることじゃないとは言え、こればっかりは授かりものだ。 欲しいと願って、すんなり宿る訳でもないだろう……よく分からないけど多分。 用紙に視線を落として、どうするべきか思案してみても行きつく先はひとつしかない。

「……分かった」
「俺はまだ暫く現役だけど、それでも良いのか?」

その言葉にじろりと視線を向ければ、渋沢は気圧されたようにたじろいた。

「両家の父親から署名捺印までされてたら、流石に私が書かない訳にもいかないでしょう? 結婚が嫌な訳じゃないから良いんだけどさ、でも物事には順番ってものが……私だって挨拶に行くべきだと思うのよ、うちに入って貰うんだったら尚更」
「悪かったと思ってるよ、話を切り出しても埒があかないだろうと思ってな。改めて二人で来るつもりだと言っておいたから」

― とりあえず、すこし落ち着けよ。

そう宥める渋沢に、“そうさせてる本人が、それを言う?”と内心思いながらも一先ず深呼吸をした。 このまま不貞寝するという選択が頭を掠めたけど、先延ばしにしたところで自分の首を絞めるだけだ。 やるべきことはやってしまおうとペンを取り、渋沢の視線を感じながらも無言で書類に記入していく。

「印鑑持ってないから、挨拶に行きながら捺すね」

そう言いながら届を差し出せば、持っている私の手ごと掴まえられた。 引き寄せようとする力に抵抗を示すと、不思議そうな顔をされてしまう。

「これ、挨拶行く前にぐちゃぐちゃにしたら合わせる顔がない」
「……ああ、そうだな」

仕方なさそうに解かれた掌がそれに伸びたかと思うと、テーブルの上に戻された。

― え。ちょっと、それちゃんと確認しないで良いの?

そんな疑問を口にする隙さえないまま、抱き締められた。 触れた体温に、なんでもなさそうな顔をしているだけで、渋沢だってそれなりに緊張していたんだと思い知る。

「嬉しいよ。ありがとう」

安堵したようにそう呟いた渋沢の表情を目の当たりにしたら、もうなにも言えなくなってしまった。




   きみをつかまえる




>>END.