彼にできて私にできないことは山のようにあっても、私にできて彼にできないことなんてひとつもなかった。
 ずっと昔から、それはそういうふうにできているのだ。
 がらくたばかりを積みあげた山の上に、私は座り込んでいる。ヒールの折れたパンプス、片方だけのピアス、動かない腕時計に、鎖のちぎれたネックレス。そこから見下ろす彼は、いつもより小さく、ずっと遠くに見えて、私は波立たない心に安堵していた。同じ地面の上に立っている彼は、あまりに大きくて、どうしても、胸をはって向きあうことはできなかったのだ。
 あのころ、彼と向かいあうものは、全て敵だった。彼と並び立っていられるのは、彼と同じ物を見ている彼らだけだった。少なくとも、私はそう思っていた。
 もう、随分昔のことだ。みんながわけもなくもがいていたころ。


 細い金の鎖が首元をくすぐる。慣れないドレスも、ピンヒールのパンプスも、身に馴染まない装飾品の数々が、周囲と私を断絶している。
 雲を踏むような気分も、高いヒールのせいだと決めつけて、わざと床を踏みつけるようにして歩いた。柔らかい絨毯に吸い込まれて、足音は少しも耳に響かなかった。
 さやさやと波が揺れるように、音が揺れている。誰もが杯をかかげて、星を降らすようにその言葉を口にした。
 私はまだ、それを誰に対しても口にしていない。一番初めに言うのは、彼女にすると決めていた。身に馴染まない服を着て、それでも思い通りの顔をして歩いてみせる。立っているたくさんの人々の間をすり抜けて、翻るドレスの裾が、何度も足に触れた。


「ちゃんと、愛されてたんじゃないの」


 思い出すことは、いくつもあって、そう多くはない。 
 私は、彼の手が何を守るために存在するのか、嫌と言うほど知っていた。スタンドから見下ろす彼は、小さく見えたはずなのに、心はざわついたままだった。
 待たせて悪かった、と眉を下げる彼に、今日もすごかったね、以外の言葉を口にしたことはない。それを、否定されたこともない。穏やかな顔をして受け止めながら、あいつらが頑張ってくれたから、というだけで、ああ、私は、私の言葉では彼を動かせないことを、よく分かっていたのだ。がらくたの上に座る、私の腕では。
 すぐ近くで揺れていた大きい手に、触れたことは一度もなかった。


「見ない振りして、逃げたのはさんの方だったんじゃないの」


 誰よりも彼の近くにいた、黒髪の後輩は、いつか私にそう言った。もしかしたら、夢だったかもしれない。冗談混じりで、笑っていたのに、目だけが刺すように鋭かった。
 私は逃げたのだったろうか。逃げたのだったかもしれない。私から離れたはずなのに、捨てられたような気がしていたのも、そのせいだったのかもしれない。邪魔になりたくない、と何かに追われるような思いで口にした私に、彼はほんの少し顔を曇らせて、そうか、とだけ言った。それ以外、何も。ああ、だから私の言葉は、最後まで彼を動かすことはできなかったのだ。


 思い出すことは、いくつもあって、そう多くはない。
 目の前に存在しているものの、色だけが流れていく。何かきらびやかな気配のようなものだけが漂っている。見知った顔がひとつふたつ、浮き上がって見えても、足を止めなかった。どこかで名前を呼ぶ声がする。口を開けば星がこぼれそうだったので、私は何もかも振り払ったまま、ただ先へ進む。


「おい、
 腕をとられたことよりも、名前を呼ばれたことの方に驚いて、足を止めた。私の方はもちろんその人を知っていた。いつもフィールドの中心近くにいて、多分誰よりも多くボールを触っているその人は、フィールドの外でもよく彼と行動を共にしていた。
「お前、最近試合見にこねえだろ」
 三上くんはよくよく私を驚かせるのが得意らしい。まじまじとその顔を見上げている私を見下ろして、眉をしかめた。答えを求められているのだ、と気付いたのは、不自然な沈黙がしばらく続いた後だった。
「あ、だって、私が応援に行っても、何も力になれないし、」
 あの馬鹿、と呟いたとも呻いたとも取れない声を三上くんはこぼす。それが何を意味するのか、あのころの私には少しも分かっていなかったのだ。
 きっと、今の私があのときあそこにいたら、すぐに身を翻して駆け出していただろう。あのころの私は、一体彼に、何を求めてしまっていたのだったか。私とは違う、と思っていた彼に。何を見て、何を抱いていたのだろう。結局、みんなまだ若く、未熟だったのだ。私も、もちろん彼も、三上くんだって。


 水のように流れていた景色が色を変える。今度は自分の意志で、足を止めた。砂糖菓子のような薄いレースを幾重にも重ねた、純白のドレスを着た彼女に、伝えることはひとつだけだった。

「ご結婚、おめでとうございます」

 私の口からも、ちゃんと星は降った。ありがとうございます、と花嫁は顔いっぱいに幸せを浮かべていた。

「渋沢くんも、ご結婚おめでとう」
「ああ、ありがとう」
「はー、言えてよかった。じゃあ、他のみんなに会ってくるね」
「まだ誰とも会ってないのか?」
「うん。なんだか、忘れちゃいそうだったから。真っ先に言いたくて」
「三上がは来るのか、とやけに心配していたぞ」
「はは、三上くんて、なんか心配性だよね」

 あのころがまるでつい昨日のことのように、自然に笑いは口からこぼれていった。彼も、どこまでも穏やかに笑っていた。私の手では彼の心を動かせなかったのと同じように、声を聞いても、笑いあっても、心は波立たなかった。

「じゃあ、また今度、同窓会でも」
「ああ。来てくれて、ありがとう」
「ううん。本当におめでとうございます」

 隣の彼女が微笑んで会釈する。二人はぴったりと馴染んで見えた。背を向けた私は、それでも今度こそ逃げたわけではなかった。
 私は私の物語をいつかきっと見つける。一瞬交差した人生は、もう二度と交わらない。私はきっと、またがらくたの山を積み上げながら生きていく。けれど、その中にはきらきらと美しいものも確かに混じっていて、私はそれを一生捨てることはない。


(2013/07/29.おとぎ話の続きは満月が上ったら)
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