ごほごほと咳込んで少し目を開けば何となく白い天井が、まあ、ぼんやりと見えた気がした。ああ、何たる平凡な光景。ふと目を細めて視界を縮ませても、やっぱりここは何の変哲もないベッドの上だと思った。少し視線を天井から落として、見詰めた先に何とも賑やかな色使いの花束。何だか少し雑草染みたそれは、花屋で買い揃えられるられるような統一感を持っていなかったようにも見える。やんわりと肌に感じる布団の温もりに、暑いと思ったのはカーテンの隙間から差し込む真夏の太陽。



また咳込んで、ああ、苦しいなと思った。少し頭が重苦しくて、退屈になる。お見舞いの花束なんて、欲しかったのかと自分に問いただして、別に欲しいなんて一度も言ってないと思った。私が愛した花束は愛の花束で見舞いの花束なんかじゃない。特別な日に特別な役割を得て、綺麗な花束。それが欲しかった何てやっぱりぼんやりと考えた。熱を帯びた空間に放置されたような気分になって、私は布団を退かそうと手を、動かした。



「……こらこら、ちゃんと布団くらい我慢してくれないと」



その優しい声が降ってきたのは、私が布団に手を掛けてすぐのこと。私はゆっくりと視線を動かす。何だか安っぽい花束から、ぎらぎらとした太陽が眩しいカーテンの隙間、やっぱり白いような気がする天井、そして――君へと。どこか母親みたいな口調で私を宥めようとしたって騙されない。そんなことを思いながら、私は布団を退かせようとした。その手を、君は簡単に止めてしまおうと手を重ねる。大きなその手は、私から布団を奪い取るとまた私にかけるのだろう。



「治るものも治らなくなる、少しは大人しくしていてくれないか?」



君――渋沢克郎という人間は、やんわりと春の日差しのように微笑んだ。昔ながら、なんだか今となっては他にやりようがいくらでもあるだろうと思うのに、堅く絞ったタオルを私の額に置くのだ。薬局に行けばそんなことをしなくても手短に簡単に額を冷やす術くらい手に入るだろうに。ずっと傍について、タオルを変え続けなくてもいいのに。それほど、彼は暇なんかじゃないだろうに。



「ああ、大袈裟だなあ……いいのに、放っておいて。どうせ結果は変わらないわけだし」

「またそんなことを言う――」



そう困ったように笑う彼は私の傍に置いてある椅子に腰を下ろした。心にぽっかりと弱音が湧き出てくるみたいだった。こんなに暑いのに。こんなにも外は眩しいのに。この部屋でたった二人だけ。私はまたゆっくりと瞬きをして彼を少しだけ見た。困ったように笑う彼がそっと私の前髪に触れようとする。私は布団に押し込めていた右手でその手先を払った。きっと、私は望んでいて、望んでいなかった。傍に居てくれる温かさはこの季節には暑過ぎると気付いていたのかもしれない。



「……ほんとに困った子だ」



私はその言葉を聞きながら、彼に背を向けるように布団を引き寄せて寝返りを打つ。また、咳込んだ私。何だか苦しいと思って、何となくでも息を止めてしまう。息を吸ってその拍子に喉のどっかが刺激を受けて咳が止まらなくなるような気がして。机の上、カレンダーが見えて、少し離れたベッドの上からでもその卓上カレンダーの日付に丸がついているのがわかる。オレンジ色の蛍光ペンで、何で丸など付けてしまったのだろう。



「そもそもの話、私が……ごほごほ、……こうなったのは克朗のせいなんだから」

「ああ、わかってるよ。謝っても仕方ないけど、すまない」



彼が謝ってくるのをわかっていながら私は彼を責めたてる。そして、きっと彼は私を叱ることなく謝罪する。わかっていたことだ。それでも、わかっていても素直になれない。素直になれないのは、好きだからだなんて小学生染みた答えを、きっと彼は笑って受け止めてくれるのだろう。彼を知って、何年経っただろう。彼が傍にいてくれるようになって、何年目だろう。フェンス越し遠かった彼の大きな手。



ボールにしか触れないんじゃないかってほど、ボールが似合っていたグローブをした手とか。私服とか別に興味ない(本当は見たくて仕方なかったけれど)とか思うくらい眩しかったユニフォーム姿とか。節目節目で変わる彼のチームとしての役割とか。『キャプテンになったんだ』と報告を受けるのはいつも後のこと。そういえば、彼は自分からキャプテンをやりますなんて言ったことはないんだろう。いつも決まってからしばらくして『任されてしまって』と苦笑いする。



「克郎が私のこと放っておくから」

「……すまなかった、俺が悪かったんだ」



背を向けたままの私でも、彼がどんな顔をしているのか手に取るようにわかる。申し訳なくて仕方ないのだろう。今でも、ボールを持つ彼は眩しいと思う。大声を上げる彼はかっこいいと思う。でも、随分経ったんだよ。そろそろ、その手はボールだけのものじゃなくてもいいじゃない。そうやって妬く相手が人間の女じゃなくてよかったのかどうかは、今になっては謎。実際の女だったなら、何とでも言ってやれたのに。部屋の隅に転がっているサッカーボール。私は独りであのボールに八つ当たりして、傍から見ればおかしな女じゃないか。



それでも、サッカーをしている彼が好きなんだから救えない。ボールに向かって一通り文句を言って罵って、それでも最後はボールを抱き締めて『ありがとう』なんて呟いてしまうのだから。彼にサッカーがあってよかったとか、彼がサッカーしていてよかったとか、――今でも続けていてよかったとか。自分の中に矛盾があっても、結局はそれが本音で、そして彼は今はボールよりも私の傍にいる。それは彼を束縛してしまっているかもしれないけれど、何だかそれはそれで得した気分だ。



「すごくすごく、怒ってるんだから……けほっ」

「わかってるから、少しは大人しくしてくれ」



ぽんと触れた彼の手は私の身体の上で。布団越し。ああ、今、負けそうになった。暑いのに私は布団を引き寄せる。私はそれなりに大人しくしているし、私はそれなりに彼に答えているつもりだった。それでもまたカレンダーが目に留まると、私はがばっと起き上がる。息を吸い込んで大声を出そうとして、やっぱり咳込む。カッコ悪い。こんな場所で彼といて、話そうとしても咳に邪魔されて、ぼんやりとする頭が余計に私に毒を吐かせるのだ。



「……っ、だから、私のことを放っておくからこんなことに。あの日は突然大雨が降って来て、克郎が遅刻して、それで余計体調崩して……げほっ」



「無理するな」と彼はそっと私の背に触れる。咳を落ち着かせようと小さく呼吸をして、私は少しだけ彼を見上げるのだ。そんな私に彼はボールを掴むためにあるようね手で私の髪をそっと撫でてくれる。そんなふうに優しくされて、一緒にいるときだけはボールのことより私を見詰めてくれる。あの日の雨――夕方の大雨。彼を待って、過ごしたあの雨の中。私が待っていたのはたった一人で、絶対に来ないことなんてないって信じていて。もちろん、彼は遅刻したものの来たのだけれど。大きな傘を持って、息を切らして――



「……全く、の八つ当たりは長いな」



そう彼は呟くように言って、私の肩をそっと抱き寄せる。それで黙らせようなんていいお兄さんの癖にと私は内心思うのだ。それでも布団の暑さよりもずっとこっちの熱さの方がよかった。そのまま私が手を伸ばして彼を抱き締めれば、「やれやれ」なんて彼は私の耳元で呟いた。その言葉を聞いて私は呟き返す。「免罪の条件」と。



「まだ満たしてないんだから……熱が下がるまで、外出禁止」

「ただの夏風邪なんだしな、一晩寝れば良くなるだろう?」



うー、と小さく唸りながら私は彼の胸の中に埋まる。本当にしんどいってこのことだ。こんな形でしか、私は自分の悲しさを払拭できない。いつもの我儘みたいに彼を独り占めして、体調が悪いことを彼のせいにして。本当は、しんどいのも悲しいのも、暑くなってきた七月の風邪のせいなんかじゃないのに。本当は、ただ――



「誕生日は毎年あるんだ、そんなに後悔しなくても治ってから祝ってくれ」



この風邪は貴方のせいだって、免罪の条件に看病を押し付けた私の方が、誕生日を祝えない私の免罪の条件を探していたなんて。君にはもうわかっていたなんて、知ってたよ。






0729様へ 愛を込めて

Material by hadashi

Mido Yusaki (free wings)
2013.07.22.