「ただいまー」

つい、いつもの癖で言ってしまう。玄関から続く廊下は真っ暗。当然返答はない。


今日克朗くんは、学生時代のチームメイトに一日早い誕生日会を開いてもらっている。
サッカーの強豪校、武蔵野森学園で中学・高校共にキャプテンを務めた彼の人望は厚い。
後輩の藤代くんに「良かったら先輩も」と誘われたけれど、遠慮しておいた。きっと私が行ったら気を遣わせるし、こういうのは仲間内だけの方が楽しいに決まってる。それに、克朗くんに黙ってこっそりプレゼントを買いに行く時間ができたから、ちょっと助かった。


部屋の明かりをつけ、買い物袋を2つテーブルに乗せて一息つく。
一応プレゼントの目処はつけてから行ったけど、思いの外時間がかかってしまった。ブランド名入りの紙袋は、明日まで見つからないよう寝室のクローゼットにでも隠しておこう。

一方の近所のスーパーの名前が入ったビニール袋には、温めるだけですぐ食べられるお惣菜が入っている。学生時代から、栄養バランスを厳しく指導されている彼に影響されて、私もこういうものは滅多に食べなくなったんだけど……たまには手抜きもいいよね。


久しぶりに食べるスーパーの肉じゃがは、少し味が濃かった。前なら気にせず食べてただろうな、なんて。こんなところにも克朗くんの存在を実感してしまう。それがなんとなく恥ずかしくて、なんとなく嬉しかった。そして今、隣に彼がいないことを思い出して、急に寂しくなった。

(今日は何時に帰ってくるんだろう…)

誕生日会とは言いつつ、サッカー部の同窓会みたいなものだろうから、帰りは日付が変わってからかもしれない。

付き合い始めの頃は、毎年0時ぴったりにおめでとうメールを送っていたけれど、年々ネタ切れになってしまって、ここ数年は直接言うか、遠征などで会えないときも、電話で済ませたりすることが多くなっていた。
久しぶりにメールでお祝いしてみようか、と思って新規作成画面を開くけれど、やっぱり「誕生日おめでとう」の後が続かない。こんなんでよくもまぁ毎年メールできたもんだ。


携帯を持ったままソファにごろんと寝っ転がれば、昼間歩き回った疲れがどっと出てくる。あぁー、まだ寝ちゃいけないのに。何度か重たい瞼を上げようとしたけれど、無駄な抵抗だったようで、私はいつの間にか意識を手放してしまっていた。




***




指定された店に入ってみれば、予想以上の人数が集まっていた。もちろん、今日は武蔵森学園サッカー部の貸し切りだ。

「これじゃただの同窓会だな」

あいつ、見境なく呼びすぎなんだよ。俺の隣に座った三上が言う。『あいつ』というのは、今日の幹事の藤代のことだ。

「いいんじゃないか、賑やかで」

「ま、そうかもしれねーけど、今回は2次会までじゃ済まなそうだな」

そう言って、かつての司令塔はニヤっと笑った。


確かに、現役選手もいる中での飲み会はなかなかハードだった。
“一応”主役にされている俺は、さっさと帰る訳にもいかず、気付けば終電。日付が変わるまでに帰ろうと思っていたのに、マンションに着いたのは0時をとうに過ぎた頃だった。


さすがにもう寝ているかもしれないな。
なるべく音を立てないように鍵を開けて部屋に入ると、リビングの明かりがついているのが見えた。

「ただい…」

あーあ、またこんなところで寝て。
リビングに入ってみれば、はソファでぐっすり眠っていた。
俺の帰りが遅くなる日、彼女は、よくここでうたた寝している。前に一度「ベッドの方がよく眠れるんじゃないか?」と聞いたことがあるが、「寝室だと、克朗くんが帰ってきても気付けないから」と即答された。俺は「先に寝ていい」という意味も込めて言ったつもりだったのだが、あっさり却下されてしまったという訳だ。

寝室から持ってきたタオルケットをかけてやろうとすると、は身じろぎしてうっすら目を開けた。

「あ、起こしたか?」

「ううん、だいじょーぶ……おかえり」

「ただいま」

待たせてごめんな。ぽんぽんと頭を撫でてやれば、彼女は眼をこすりながらくすぐったそうにした。

「今何時?」

は、返事を待つことなく俺の腕時計を覗き込んでくる。時計は、1時少し前を示していた。

「うわ、失敗したー」

そのままがっくり項垂れる。何かあったのかと髪で隠れた顔を窺えば、彼女は少しだけ顔を上げて「…0時ちょうどに、おめでとうメールしようと思ってたの」と、恥ずかしそうに言った。
……正直、今の表情はちょっと反則だ。

「じゃあ来年、楽しみにしてるよ」

「来年は、日付変わる前に帰ってきてくれなきゃ嫌」

「あー、すまん。悪かった」

拗ねる彼女を慰めようと、自分のより一回り小さい両手を俺のそれで包めば、互いの左手の薬指には、同じのデザインの指輪がはめられていて。柄にもなく「あぁ、幸せだな」なんて思ってしまう。
そんなに飲んだ覚えはないが、少し酔いが回っているのかもしれない。


「克朗くん」

「うん?」

不意に名前を呼ばれて視線を上げれば、思ったよりずっと近くにあるの顔。そして、唇に何かが触れる感触。呆気に取られる俺を見て、微笑みながら彼女は言う。

「誕生日おめでとう」

ありがとう、の代わりに今度は俺の方から顔を近付ければ、彼女はそっと目を閉じた。






遠にともに