「こんにちは」 「こんにちは、元気そうだな須釜」 「そちらこそお変わりないようで。どうぞ中へ」 須釜の家は車で一時間以上かかる場所にあった。 住宅街からも少し離れた場所にあったが、古民家を改築した建物のせいかよく目立ち、見逃す事はなかった。 「わざわざすみませんでした、商品を届けさせてしまって」 今朝須釜から電話があった。 昼過ぎにそちらに行くのでいくつか欲しい品があるので取り置きして欲しいというものだった。 聞けば家族が夏の暑さにやられているとの事だったので須釜には家族の看病をさせ、こちらが出向く事にした。 「いやいいよ、出掛けるのは好きだ」 「そうですか。どうぞ、粗茶ですが」 藍色の薩摩切子のグラスの中で麦色が揺れた。 「ありがとう」 よく冷えた液体が汗ばんだ身体を冷やした。 それから今年の夏も暑いなぁと世間話を始めると携帯が鳴った。 ポケットから取り出した時には音は鳴り止んだ。メールを送ってきたのは妻だった。 いつもの「いつ帰ってくる?」というメールだった。 内容だけ確認するとポケットの中へ携帯をしまった。 「あれ、メールの返信はしないんですか?」 「しないよ」 「迷惑メールでしたか」 「いや妻からだよ」 まずい事を言っただろうかというような引きつった笑顔を須釜が浮かべた。 「あまり返事はしないようにしてるんだ」 「どうしてそんな意地悪を。仲は良かったじゃないですか」 「面白い話じゃないぞ?」 「構いませんよ。あまりにも不味い話なら腰を折りますんで」 「勝手な奴だな」 「ちょっと前に俺が学生時代に付き合っていた子に会ったそうだ。俺にとっては言われなければ思い出しもしないぐらいの関係の相手だ。その時はサッカーと学業を優先させたくて恋愛までは手が回らなくて断ってたんだが押し切られた。根負けだ」 普通の恋人同士のように休みにデートに出掛けたり、巷のイベントにのってプレゼントの交換をしたりは必要ない、何かを求めたりはしないから付き合って欲しいと言われて渋々承諾した。 「それから付き合ってるなんて名ばかりの状況が続いて卒業とともにそのまま自然消滅した、と思っていた」 「その彼女と奥さんが出会った?向こうはよく知ってましたね」 「店にいる人間でそれらしいのは一人しかいないからな」 「それで」 「それで、町中で会った時に付き合っているうちに奪った泥棒猫だとか言われたらしい」 「お昼のドラマのようですねぇ」 「それからどうも不安がるようになったんだ。奪った人間は奪われる事でもあると思ってるのかもしれないな」 その話を聞かされた当初は驚いた。 十年近く前の話を蒸し返された驚きもあったが、それを聞かされて動揺している妻の姿にまた驚いた。 「それでどうしてメール返さないようになったんですか?不安に思ってるなら返して安心させてあげればいいじゃないですか」 もっともな言い分だった。 「最初はそうしてたさ、でも次第に俺が何するにも気にするようになった。さすがにそうなると俺も相手をするのが辛くなったんだが、いちいちそんな事を言うようになった自分に彼女自身もうんざりしていた」 「難儀なものですね」 「どれだけ誠実な対応をしても彼女が俺を疑ったらもうどうする事も出来ないお手上げだ。それにも気付いてる、疑う事は際限なく出来る、一時期と思えば連絡の回数はぐっと減ったんだ」 「言われたショックから立ち直りつつあるんですね」 「どうかな。心中穏やかにはなってないと思ってるよ」 「にも関わらず返事はしないんですか?意地悪な人だなぁ」 「俺もそう思うよ」 「でも連絡をとらないでいると彼女の頭の中は俺の事でいっぱいになるんだ。愛してるって毎日言うよりもずっとな。帰ると目に涙を浮かべて擦り寄って来てあぁ良かったって顔をするんだ、今はあれが可愛くてしょうがない」 帰ってきた俺の姿を見て喜ぶ顔に、今までになかった愛しさを感じた。 初めの頃はそこまで心配させていたのかと心を痛めたが、それもすぐになくなった。 不安にかられている姿は好かった。 思考が悪い方へ悪い方へと流れ、行き着いた先でぐずぐずに腐っていく。 顔は青ざめ、血の気の引いた指先は縋る先も見つけられないまま震え、額には脂汗が浮かび、目は涙で潤む。 今にも崩れ落ちそうな時に素知らぬ顔をして抱きしめるのがいい。 「わざわざ商品を届けてくれた裏にそんな企みがあったんですね」 「企みなんて人聞きの悪い事言わないでくれよ」 「多くの人が捻くれてるなぁと思うはずですよ。渋沢くんは真面目で誠実な印象がありますから綻びがあれば目立ちます」 「ははっ、もう目立ってもいいだろう。現役は引退して結構な時間が経ったしな、俺目当ての客はいるが近所のお得意さんばっかりだよ」 「変わったなぁって言われますよ」 「変化の一つや二つあるさ。須釜だってそうだろう?」 「一緒にされると困るなぁ」 「甘い蜜には弱いんだ、それだけの話さ」 「だとしてもそれを愛しい奥さんでやりますかね」 「愛しいからやるんだよ」 「これはもう本当に、困った人だなぁ」 |